死霊(埴谷雄高)

手元に古い新聞の切抜きがある.日付は1991年8月27日.読売新聞である.

それは,埴谷雄高氏のインタビュー記事で,それこそが私と『死霊』との出会いである.

以来,読んでみたくて仕方がなかったのに手を出していなかったのは,〈形而上小説〉というレッテルが,敷居を高くしていたからである.

そうしているうちに,埴谷氏逝去のニュースを聞き,『死霊』は未完になったとは知っていた.新聞の記事を読んだときからそうなるような気はしていたのだが,まだ『死霊』を読んでもいないのに,残念でならなかった.

それからずいぶん下って,2003年12月初旬.n先生のところへ行ったところ,本棚に『死霊』が並んでいた.

「ああ,先生,『死霊』読むんですね.読んでみたいとずっと思ってたんですよ」
「じゃあ,持ってく?」

かくて,私の手元に『死霊』がある.

以前,キルケゴールの『死に至る病』にチャレンジして見事に挫折した経験から,哲学的な書物に拒否反応を示していたのだが,借りてしまったからには,感想のひとつも述べなければならないだろう.そう思って,恐る恐る読んでみた.

ずっと「しりょう」と呼んでたけど「しれい」だったんだなあ,などとどうでもいい感慨を持ちながら読み出した.

ところがだ,思っていたよりもずっと現実感の在る物語だったのだ.むしろ,推理小説めいている.熱に浮かされたように迸る思考が消え去る前に言葉にするための時間ももどかしく書きつけたようであり,じっとりと呻吟しながら単語を択び血を吐くように身をよじるように絞り出したようでもある.

虚空に放り出されたような空恐ろしさを感じながら読み進めている.

居住まいを正して,ひとつひとつの単語・漢字の意味を確かめながら読んでいかなければならないようなそんな謙虚で誠実な気分になる.

読み進むにつれて,ひれ伏したくなってくるのだ.たとえば,主人公・三輪与志の囚われている〈気配〉について読んでいると,多くの人がふと感じるであろう精神の間隙のような寂寥感に,名前を付け,答えを突きつけられているようだ.こういった,凡人が流してしまうような心の流れを突き詰めたのが埴谷氏なのか.

この話をもっと若いうちに読みたかったと思う一方で,変な分かり方をしてしまいそうだから若いうちに読まなくてよかったとも思う.

埴谷氏がその思想を道連れに既に世を去っていることが惜しくてならない.

日時: 2003年12月29日 | 感想 > 本 |

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